平和の意味を考える・・・映画『Peace』(日記)2011/07/26 22:36

映画『Peace』
 この作品はドキュメンタリー映画作家の想田和弘監督の最新作です。私は、監督が足利出身ということ以外、何の事前知識も持たずにその映画を観に行きました。チラシを見て、猫と老人の映画くらいにしか考えていませんでした。結果的には、それが良かったのかもしれません。何の先入観もなかっただけに、それは、まさに「発見」の映画でした。そんな訳で、ここで、映画の紹介をしてしまうのをちょっと躊躇います。無心で観て欲しい、そんな映画でしたから。
 想田監督がカメラを向けたのは、岡山で暮らし、福祉の仕事に携わる義父母とまわりの人々、義父が庭で世話する野良猫達の静かな日常でした。”福祉有償運送”という名のボランティアで障害者を送り迎えして買い物につき合ったり、狭い路地裏の老人宅をヘルパーしてて思わず戦争体験を聞いたり、裏庭では猫世間に波風が立っていたり、そんな日々の普通の暮らしの中に、「平和と共存」のカギがあったのでした。
 監督自身の言葉を借りれば、「ゆずることが共存の条件。多様性が平和の基盤。多様であることが許されること、それが平和であるということ。寛容は平和の種子。不寛容は戦争の種子。」強いものがゆずること。受け入れること。それは野良猫の集団が私たち人間に見せてくれた「平和と共存」の知恵でした。様々なハンデを持つ人も、人に迷惑をかけながらも、普通に生きていける。そんなあたりまえの日常が「平和」そのものでした。
 今、私たちの暮らしは『Peace』=「平和」なんだろうか? 戦争をしていないから「平和」と、簡単には言えません。人々が、ピースフルな暮らし、平和な日々を送れるということが、本当の『Peace』=「平和」です。

 3.11以後にこの映画を観る意味というものを、私は改めて考えました。たくさんの人々が震災によりそれまでの日常を奪われました。そして、たくさんの人々が原発と放射能におびえながらの暮らしを余儀なくされています。自分の家で、自分の街で、生きて、暮らして、死んでいくというあたりまえの生活を奪うものが原発でした。
 災害は自然現象ですが、戦争は人間が起こすものです。原発は人間が作ったものです。私は原発というものが、いかに「反平和的」で暴力的な存在かということを思い知りました。
 かつて、原子力発電のことを原子力(核)の「平和利用」と名付けて、この日本に持ち込んだのは一体誰でしょう。広島長崎の悲劇、第5福竜丸の悲劇を経験した日本人は、核=戦争という認識と、核を拒否する感覚を持っていました。ところが、「平和利用」という言葉に騙されて、原子力(核)を受け入れてしまいました。将来的に核武装したいと思っていた当時の一部政治家やその周辺による、強引な原発導入と日本人の意識改造計画があったとする見方もあります。
 いずれにしても、「平和」という視座から「原発」を考え直すことが必要だと痛感しました。単なる、技術論や電力問題だけで論じていては、原発危機の根本は見えてこないと思います。

 この映画、「平和」の意味をもう一度見つめ直す、ささやかな日常を描きながら、そんな大それた問題を提起する、素晴らしい作品でした。
 映画『Peace』公式HP http://www.peace-movie.com/index.html

コメント

_ sawada ― 2011/07/27 12:37

映画ぜひ見たいです。

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