“絆”と原発危機~ポスト311の空気 ~2012/04/28 23:13

 “絆”と書いて“きずな”と読みます。最近では人と人との結びつきをさす言葉として使われていますが、もともとの意味は家畜をつなぎとめる綱(きづな)のことです。絆し(ほだし)と読めば、自由を束縛することという意味になります。転じて、断ちがたい情愛とかという意味にも使われて、今の意味につながっています。この言葉、少なくとも、3.11以前は、日常生活の中でよく耳にするような言葉ではなかったと思います。私などは、せいぜい長渕剛の歌「乾杯」の出だし文句が浮かんでくるくらいでした。ところが、3.11以後、にわかに“絆”という言葉が巷に氾濫するようになりました。町内会の募金から、果ては瓦礫受け入れまでも、みんな“絆”です。メディアを通じて“絆”キャンペーンが繰り広げられ、今では子供でも知っています。確かに良い意味での“絆”はとても大切なものだと思います。しかし、震災復興、がんばろう日本!助け合いとか協力という美名で飾られた“絆”という言葉の裏には、「日本人なら協力しろ」という無言の圧力が感じられます。断ろうものなら「非国民」と指差されそうな雰囲気があるのも事実です。今回は原発危機と“絆”をキーワードとして3.11後の時代状況を考えてみたいと思います。
 福島では原発事故の放射能によって汚染された大地に多くの人々が暮らし続けています。国は年間20ミリシーベルトまでは居住可能として避難体制の見直しを進めています。放射線管理区域の基準を大きく上回る年間20ミリシーベルトというとんでもない数値なのですが、緊急時を口実に被曝を正当化しようとしています。子供たちへの影響を考えれば、放射線を避けて避難すべきレベルです。なのに今、そこでは避難を口に出せない雰囲気があると言いいます。なぜなら、国も自治体も「除染」一辺倒だからです。国も自治体も、みんなで力を合わせて「放射線と闘う」と言っています。でも、DNAが放射線に勝てないのは自然の法則です。これではまるで竹槍でB29と闘う戦時中の発想と同じです。どんなに馬鹿げていても、みんなで闘っている時に逃げることは許されないという空気があるのです。それが“絆”なのでしょうか。
 震災瓦礫の受け入れ(押しつけ)問題にしてももそうです。放射性物質で汚染されている可能性のある瓦礫を全国の自治体で処理しようと国は躍起になっています。科学的技術的経済的な検証を曖昧にしたまま、とにかくみんなで瓦礫処理を受け入れることが復興に協力することだと、全国の自治体に迫っています。とにかく協力と迫って、安全確認や住民への説明が後回しになっています。「みんなで」助け合うという、ここでも “絆”がキーワードです。
 食べて応援キャンペーンもそうです。これまで国は異常に高い暫定基準値を作ってわずかなサンプリングで基準値以下ならあとはすべて安全として食品を流通させてきました。そしてそれを食べないことは、いかにもワガママとかヒステリーとでも言いたいような空気があります。学校給食においても放射能に対する不安を理由にした弁当持参を許さないという流れがあります。言い方は悪いですが、自分だけ助かるのか、とでも言いたいような雰囲気があるのです。これも“絆”なのでしょうか。
 話は少し横道にそれますが、震災直後、アメリカ軍は“トモダチ作戦”を展開して救援・支援活動を行いました。日米の“絆”などともてはやされましたが、原発(放射能)事故の情報収集活動とか震災の政治的利用という批判もあります。アメリカのパネッタ国防長官は3.11一周年にあたって日本政府に寄せたメッセージで、米軍と自衛隊との「パートナーシップと友好の絆(bonds of partnership and friendship)と言っています。英語では“bond”を使います。英和辞典で調べると、“bond”の意味は、「ひも、帯、束縛するもの、接着剤、結束、束縛、契り、きずな、契約、債権(研究社リーダーズ英和辞典)」などの意味があります。古語として「農奴、奴隷」という意味もありました。このように、同じ“つながり”でも相手を束縛するような“つながり”の時に使うところは、日本語の “絆”同じです。
 さて、話を元に戻しますが、このように、“絆”という言葉には裏表があります。「美しい言葉」としてそれを無批判で受け入れることはできません。人々を集団に従わせ個人行動を許さないというときに、“絆”を持ち出しているように思います。そうなると、まさに言葉本来の意味、すなわち、人々を鎖で縛り付ける“絆”となってしまいます。“絆”という言葉はもともと家族とが男女とか狭い範囲で使われる言葉だったと思いますが、それを国家レベルの社会集団に拡げて使うからおかしくなってしまうのだと思います。ましてや、国が国民に対してこの言葉を使う時には注意しなければなりません。日本には「国家」という日本語に象徴されるように、国を「家」にみたてる発想があります。家族の“絆”という情に訴え、国家総動員で戦争に突き進んだあの時代に逆戻りさせてはなりません。
 震災直後、日本人の「忍従や規律、団結と互助、献身、自己犠牲」の姿に海外から驚きと賞賛の声が寄せられたといいます。例えば、暴動や略奪が起こらないとか。これは一面、日本人の美徳であるようですが、反面、過ぎれば悪習にもなりかねません。「忍従や規律、団結と互助、献身、自己犠牲」これらの言葉をすべて「国家」の方向に向ければ、そのまま「ファシズム」になってしまいます。
 3.11以後、日本は非常事態にあって、その社会は一種の「擬似戦時体制」となっています。経済が行き詰まり政治が混迷し未来が描けない、そんな「時代閉塞」の気分がその「擬似戦時体制」と結びついて、いつか本物の「戦争」へと進んでいくのではないだろうかと恐れます。そんな時代の空気を象徴するコトバとして“絆”について考えてみました。これが考え過ぎであることを願っています。