青森県と原子力の因縁2011/06/06 07:15

1986年4月9日、反核燃の日
 青森県知事選挙で原発推進派の現職知事が当選したというニュースを聞いて複雑な気持ちです。

 20年以上前、生徒たちと一緒に青森県下北半島を旅したことがあります。夜行で翌朝八戸に着いて、それからさらに何時間もかかりました。とにかく遠かった。私たちは、当時すでに大きな問題になっていた六ヶ所村再処理工場予定地や原子力船むつに揺れるの関根浜などを回ってきました。六ヶ所では広大な葦原の丘陵上に建設地点を示す鉄塔が建っていて標識灯が点滅していたのを憶えています。原子力船むつも間近で見てきました。関根浜では地元で反対運動をやっている漁師の話を聞いたりしました。このあたりは大間のマグロで有名なところですが、その晩もとびきり美味しいマグロをみんなで豪快に食べて語り合ったのを懐かしく思い出しました。

 その後、原子力船むつは廃船となり原子炉も解体されました。しかし、再処理工場建設や新たな原発立地などで、下北半島一帯はさながら日本の原子力基地のようになりつつあります。六ヶ所村の再処理工場は完成目前という段階。東通原発はすでに東北電力の1基が運転を開始、東京電力の1基が建設中、さらに2基が計画中。津軽海峡に突き出た大間には電源開発の原発1基が建設中です。

 さて、どうして、ここに再処理工場や原発がやってきたのでしょう。今から40年以上も前の1969年、当時の知事や政治家がよってたかってバラ色の「むつ小川原巨大開発計画」をぶち上げました。ところが大失敗、巨額の借金と広大な荒れ地が残りました。ちょうどこのころ、日本各地で原発が運転を開始、ところが、たまり続ける核廃棄物をどうするかメドがたたず、国や電力会社は処理問題に頭を抱えていたのです。1983年に総選挙のために来県した当時の中曽根首相が「下北を原子力のメッカにする」とぶち上げたことから、一気に動き出しました。周到に地元首長らを取込み強引に立地を進め、1985年には知事も県議会も受け入れ決定。地元漁民らの文字通り命がけの反対運動を押しつぶして、1993年ついに着工してしまいました。決して、地元民がカネと仕事欲しさに誘致したのではありません。国が、政治家が頭ごなしに持ち込んだものなのです。長い歴史と因縁があります。

 あまりにもいろいろな問題が集中していてその歴史も因縁も深くてとても一言では語れません。再処理工場は日本中の原発から出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す施設です。再処理工場では原発が1年で放出する放射能を1日で出すと言われています。
 その再処理工場は着工後18年たっても完成していません。当初建設費7600億円だったものが、2011年2月現在で2兆1930億円に膨れ上がっています。高レベル廃液漏れ事故やトラブル続きで完成が延び延びになっています。さらに、今回の地震では外部電源を喪失して危機一髪がありました。ここにはすでに全国から集められた使用済み核燃料など核のゴミが大量に保管されています。このような施設が青森県に作られていることを多くの人に知ってもらいたいと思います。再処理工場の危険性については、また改めて書きます。

 昨年久しぶりで八戸に行ってきました。今度も美味しい魚をいっぱい食べてきました。屋台のマスターが「この辺じゃ親に育てられたもんはいねえ、ばあちゃんに育てられてる、だってみんな出稼ぎでいねから」と言ってたのを思い出します。八戸も震災でだいぶやられました。1日も早い復興を願っています。
 原発の問題は、過疎や格差という地方のおかれた現実と深くかかわっています。都会に暮らしながら、青森県の人はなぜ原発を受け入れちゃうのだろうと不思議がっているだけでは、何も変わりません。

選挙結果を伝える記事
毎日新聞