関東に広がる放射能汚染(その3)ー放射能汚染地図 ― 2011/10/08 08:25
10/6、文科省は東京都と神奈川県の放射能汚染マップを公表しました。この地図と、群大の早川先生の汚染ルートマップを重ねて見ると、事故直後の放射能雲の流れと汚染のタイミング、それによって今も残っている放射能汚染がはっきり見えてきます。(図は文科省によるセシウム134と137合計の地表汚染濃度地図に群馬大学の早川由紀夫教授による汚染ルート図を重ね合わせてみたものですが、両図とも詳細はオリジナルデータをご覧ください。)
首都東京は、3月15日(火)午前中に放射能雲が通過していきました。この流れは早川教授が群馬ルートと名付けています。この日の東京の気象条件は、朝から曇で北東の風が吹き気温10℃の肌寒い日でした。東京にとってはそのとき雨が降らなかったのが幸いだったのかもしれません。
もう一つの放射能雲の流れは、柏ルートと名付けられたものです。3月21日午前、水戸から柏付近を通って葛飾に至り東京湾へと流れました。この日関東地方は雨が断続的に降っていました。その雨がニュークリアレインとなり、柏市など東葛地方に濃い汚染地帯を残しました。東京では葛飾区から江戸川区あたりに汚染を残しました。東京にとって幸い、この後東京湾へと抜けて行ったようです。末端が木更津付近に達して汚染を残しています。
大都市東京の多くは、汚染地図を見る限り、放射性物質の大量降下を受けずに済んだようです。ただ、東京に住む人々がこの地図を見て自分の所は良かったと安心されることを恐れます。この地図はあくまで現存の汚染量を示すものです。放射能雲が流れ込んだ当時の汚染状況を表すものではないということです。例えば、放射性ヨウ素などは相当飛来したと考えられますが、ヨウ素の汚染状況など今頃調べても分かりません。3/15は新宿のモニタリングポストでさえ0.5μSv/hを超える値を記録しています。当日の大気分析データではヨウ素131が1立方メートル当たり500ベクレル近く検出されています。 (3月15日 東京を襲った「見えない雲」)
さて、東京を通過した放射能雲は奥多摩から秩父を通り、群馬県に流れ込んでいきました。山間部では多量の放射性物質を降下させて地表を汚染していきました。雲が地表に接する高さでは降雨がなくても放射性物質が森に漉しとられるように付着していったと考えられます。早川先生の群馬ルートの最終点魚沼地方まで原発から500km近く流れていったことになります。
半年も経ってから、いろいろなことがはっきり分かってきました。放射能の流れや広がりを今になって知っても、意味の無い場合もあります。その時、放射能に曝された多くの人々、危険を知らされずに放射能の中にいた多くの人々、私や私の家族も含めたそのような人々にとって、今更そんなことを言われても意味がありません。SPEEDIを使って事故直後に拡散予測をしながら隠し続けた国の罪はまさに国家犯罪です。
3/15、私は学校に出勤しました。学校は通常通りに開かれ生徒は登校してきました。こんな状態でこんなことやっていて良いのですかと主張しても、県からは何の指示もありませんと言われたことを思い出します。子どもたちが普通に外を歩き回っていました。
7ヶ月後の汚染地図を見て、私は改めて憤りを憶えます。この地図は取り返しのつかない過去と、呆然と立ちすくむ未来を私たちに見せているようです。
文部科学省による東京都及び神奈川県の 航空機モニタリングの測定結果について(10/6)
http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/10/1910_100601.pdf
汚染ルートとタイミング(早川由紀夫火山ブログ)
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-430.html
首都東京は、3月15日(火)午前中に放射能雲が通過していきました。この流れは早川教授が群馬ルートと名付けています。この日の東京の気象条件は、朝から曇で北東の風が吹き気温10℃の肌寒い日でした。東京にとってはそのとき雨が降らなかったのが幸いだったのかもしれません。
もう一つの放射能雲の流れは、柏ルートと名付けられたものです。3月21日午前、水戸から柏付近を通って葛飾に至り東京湾へと流れました。この日関東地方は雨が断続的に降っていました。その雨がニュークリアレインとなり、柏市など東葛地方に濃い汚染地帯を残しました。東京では葛飾区から江戸川区あたりに汚染を残しました。東京にとって幸い、この後東京湾へと抜けて行ったようです。末端が木更津付近に達して汚染を残しています。
大都市東京の多くは、汚染地図を見る限り、放射性物質の大量降下を受けずに済んだようです。ただ、東京に住む人々がこの地図を見て自分の所は良かったと安心されることを恐れます。この地図はあくまで現存の汚染量を示すものです。放射能雲が流れ込んだ当時の汚染状況を表すものではないということです。例えば、放射性ヨウ素などは相当飛来したと考えられますが、ヨウ素の汚染状況など今頃調べても分かりません。3/15は新宿のモニタリングポストでさえ0.5μSv/hを超える値を記録しています。当日の大気分析データではヨウ素131が1立方メートル当たり500ベクレル近く検出されています。 (3月15日 東京を襲った「見えない雲」)
さて、東京を通過した放射能雲は奥多摩から秩父を通り、群馬県に流れ込んでいきました。山間部では多量の放射性物質を降下させて地表を汚染していきました。雲が地表に接する高さでは降雨がなくても放射性物質が森に漉しとられるように付着していったと考えられます。早川先生の群馬ルートの最終点魚沼地方まで原発から500km近く流れていったことになります。
半年も経ってから、いろいろなことがはっきり分かってきました。放射能の流れや広がりを今になって知っても、意味の無い場合もあります。その時、放射能に曝された多くの人々、危険を知らされずに放射能の中にいた多くの人々、私や私の家族も含めたそのような人々にとって、今更そんなことを言われても意味がありません。SPEEDIを使って事故直後に拡散予測をしながら隠し続けた国の罪はまさに国家犯罪です。
3/15、私は学校に出勤しました。学校は通常通りに開かれ生徒は登校してきました。こんな状態でこんなことやっていて良いのですかと主張しても、県からは何の指示もありませんと言われたことを思い出します。子どもたちが普通に外を歩き回っていました。
7ヶ月後の汚染地図を見て、私は改めて憤りを憶えます。この地図は取り返しのつかない過去と、呆然と立ちすくむ未来を私たちに見せているようです。
文部科学省による東京都及び神奈川県の 航空機モニタリングの測定結果について(10/6)
http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1910/2011/10/1910_100601.pdf
汚染ルートとタイミング(早川由紀夫火山ブログ)
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-430.html

最近のコメント