20年ぶりの反原発出前講師(日記)2011/07/09 23:02

小道具新作:ペレットと燃料棒
 今日は、原発の話を頼まれて小さな集まりに行ってきました。おそらく、20年ぶりの「反原発出前講師」です。
 放射能汚染の実態、20ミリシーベルト問題、福島原発で何が起こり今どうなっているのか、電力不足は本当かなど、このブログで取り上げてきたようなことをお話ししました。昔、出前には必ず何かしら小道具を用意しました。今回の新作はペレットと燃料棒の部分模型です(写真)。

 さて、今回私を呼んでくれたのは、友人の関わっている障害者運動グループの人たちです。車イスで介護者付きの参加でした。そんな訳で、障害者運動と反原発運動の関係は?という質問があり、参加者の皆さんと一緒に私も考えてみました。

 障害者運動と反原発運動の関係
 一つは、効率追求と障害者排除の論理という問題です。効率や能率を追い求める社会システムを象徴するものの一つとして「原発」というシステムがあります。それに対して、非効率で足手まといな存在、マイノリティーとしての「障害者」という人たちがいます。結局、「原発」的システムは「障害者」的存在を排除することで成りたっているのではないでしょうか。「原発」は圧倒的に強者の論理によって成り立っています。
 もう一つは、「自分の命は自分のものだ」という当たり前のことが脅かされているということです。障害者であっても彼の命は彼のものです。ところが、障害をもった人たちは、障害者であるというだけで命を管理され握られてしまうことを余儀なくされています。障害者運動はそういうことに対してずっと異議を唱え続けてきました。「原発」は電気と引き換えの放射能によって、人びとの命を脅威に曝しています。自分のDNA=自分の命が勝手に傷つけられています。「自分の命が自分のものでなくなっている」ことに、ものすごい違和感、危機感、怒りをもつことが、反原発運動の原点だからです。
 講座からの帰り道、ずっと考えてきました。命の危機、生存の危機を感じるかどうかは、本能とか感性の問題かもしれません。データと理詰めでどれだけ反原発を訴えても、なかなか人の心を動かすことはできません。もちろん、真実を知ることはとても大事です。次に必要なのは、理屈でなく、感性(センス)です。感じるか感じないかはとても大きな違いです。反原発運動を「集団ヒステリー」と揶揄した人がいますが、理屈の通じない連中がコワイから、そんなことを言うのでしょう。

 「反原発出前講師」引き受けます!